『自らの人生を回顧する「生き抜くとは努力です」』(正峰*第22号)

檀信徒の皆様方も生き抜くことの、素晴しさを知って欲しいと思っております。それは昨今のようにあわただしい世の中で毎日懸命に生き抜いた人のみが知ることのできる、素晴しさなのです。毎日遊んでいては、このすばらしさは解らないと思います。自分の本分(仕事や勉強、家事など)を精一杯頑張ると必ずこの生き抜く素晴らしさの何かがわかるはずです。
私達は健康であることを、極く(ごく)当り前のように思っている人が案外と多いのではないでしょうか、病院へ見舞い行ったりしますと、色々な病気で悩み苦しんでいる患者さんがいっぱいいるのに出合いますね、そしてその帰り道などで改めて自分が健康でいる有難さに気がついたりしますね。「生き抜くことは死に切ることである」と言う古来の名言があります。自らの人生を立派に生き抜くとは誰しもの憧れですが、これは大変な努力が必要です。でも出来ないことではありません。そして、もし生き抜けられた時、死の恐れもなく生きると同様に心安らかに恐怖など切り捨てて極楽往生が出来るのです。
毎日生き抜いている人だからこそ、死に切ることが出来ると言えましょう。簡単な言葉ですが、毎日の積み上げが大切なのです。
近頃の世相の悪化とでも言うのでしょうか、私達の身近な所にも人の道を踏みはずし、せっかくの人生を台無しにして追詰められてしまった人が居ます。その様な人の類形を見ると、必ずと言ってよいほど自分は努力をせず、悪くなったのを自分以外の所に当てこする。誰彼が悪い、世の中が悪い、会社が悪い、と言った具合で愚痴ばかり、どこまでも止まる所がないのです。生き抜けない人、死に切れない人でもあります。そんな困った人のサンプルにならぬように、立派に生き抜ける人を心がけて下さい。
世相と言えば、近年の学校教育の現場の荒廃はどうしたものでしょうか、一時期は偏差値ばかりが重視され、先生は成績の良い子ばかりを標準にして、いわゆる「オチコボレ」など教室について行けない子、勉強嫌いになって非行を繰り返す子供の問題を生じました。暫くして今度は生徒に勉強する意欲がなく、授業中に遊び始めたり、教室を飛び出したりして、クラスがまとまらず学級崩壊を起こす事態が多発しました。外部からの不審者が教室内に突然現れて、教員や児童を襲う。児童同志が刃物を使って級友を襲う。ともかく異常です。一体何が狂ってしまったのか。学校制度だけの問題でなく子供の躾が出来ず、教育も出来ない親達も困ったものです。反省を知らないマスコミも問題、暴力・殺人・悪智恵、泥棒技術の紹介まで、一体誰がこんななんでもありの日本社会にしてしまったのでしょうか、他のせいにするのではなく、身近な所から私達皆が真剣に考え直す時期が来ていると思うのです。人間は昔から「一人一徳」と申しまして誰しもが必ず他の人より優れたものを一つは持ち合せて居るものだと言われています。例えば石はどんな石でも必ず用途があります。従って石には屑はないと教えられました。これは先師であり父である祖岳和尚の言葉でした。又先祖があり親があって、私達がこの世に生を受けて参りました。たとえ体つきが多少格好が悪かろうが、顔立ちが良いとか、悪いとか、これは如何とも致しがたい事なのです。お医者さんの整形技術が進んで、何程かのお金を出せば、相当に美形に見えるよう繕ってもらえるのだそうですが、これも余程の不都合であったとしたら仕方ないのかも知れませんが、そうでない場合つまり、その必要もないのに見栄のため、無理をしている例が多いように思えます。
折角両親からいただいた大切な身体に、何故メスを入れて加工するのでしょうか、確かに人間の顔や姿は両親から頂くもので、全てに気に入ると言うのはむずかしいのかも知れません。所が各人の努力、特に教養とか修練とか社会経験や日頃の心掛けにより、容貌も体格も変わって行くのです。よく40才からの顔は自分が造るものだと言われますが、その人の人生の履歴が表れるものなのです。美しいか否かは、その人の努力次第、全て貴方自身の心の反映なのです。時に自分の顔を鏡に映して見て自分の生き方がどうであったかを、確かめて下さい。
仏教人として生きて来た私ですが、今も、そのようにして日々自ら糺しています。
合掌
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