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『供養と行事』

正峰*第23号

お正月のテレビの番組で面白い光景を見ました。
番組は東京の正月の「民族大移動」でガラガラになった都心の様子を紹介していたものです。
その中で「正月は何をしますか?」とマイクを差し出して質問するのです。
初売りでごった返すデパートでショッピング中らしい若いOL風の女性は、
「テレビをみます」のひと言。
学生風の男性は、「スノボー」
今度は「お正月って何ですか?」という質問に、サラリーマン風の男性は、「えっ」と言って、笑った。
二人づれのOLは、「初詣」とひと言。
極め付きは、新幹線でふるさとから帰京したらしい家族でした。
改札口を出たところで、2~3歳の男の子をおんぶした若い父親が「お正月って何ですか?」とマイクをつきつけられました。
一瞬キョトンとして、何か言おうとしたら、2~3歩先を歩いていた奥さんが、もう一人の男の子の手を引いて戻ってきて、いきなり夫の袖をつかんで、「そんなこと関係ないの、さっさと来なさい。もうッ」
その男性はちょっと、申し訳なさそうな顔をして、その画面から消えてしまいました。
これを見た人は、笑ってすませたのでしょうか?それとも、わが家はまだましな方だなと思ったのでしょうか。
最後に評論家らしき人が出てきて、「正月とは……」と説明したのですが、又それが要領を得ないのです。
おそらく自分でも分かっていないのでしょう。
時間の「節目」を先人たちはさまざまな感謝と祈りの行事を通して、私たちに残してくれました。
繁栄を続けるには必ず節目が必要だということを。
「松に古今の色なく 竹に上下の節あり」
正月もこの「節目」を確認する大事な宗教活動であろうと思います。

さて日本人の「無宗教」ぶりは、こんなところにもはっきりと現れていると思います。
宗教の知識がないというだけではありません。
もっと深刻な「無宗教」ぶりなのです。
この人たちは、どんな家庭をつくって、どのようにして子どもを育ててどのような人間になっていくのだろうか。
「お正月とは?」聞かれても、ひと言も言えない若者たち。
妻に袖を引っ張られて、引きずられていく夫、その子どもたちは、この親をどんな目で見ているのでしょうか。
そういう親たちを見て、子どもたちはどんな人間に育っていくのでしょうか。
「今の教育は、子どもの個性を生かせ、という基本でやっていますが、残念ながら子どもに個性なんかないのです」と言いました。
先生方はびっくりして、「なんて荒っぽいことを言う和尚だろう」というような顔をしていました。
私が言いたかったことは、「子どもは、親の育てたように育つ。親を尊敬すれば、親のまねをする。反発すれば親の逆をする。生徒と先生の関係も、同じだ」ということでした。
少なくとも、幼稚園や小学校の低学年までは、子どもの性格や個性は、親の責任が100パーセントと思って、親は子育てに神経を集中すべきなのです。
中学生や高校生になれば、子どもの「個性」も本人の責任が主になってきます。
しかし、「非行」などは、親が自分たちの生き方をしっかり見せておけば、親が悩むことにはならないはずです。
どういう生き方を、子どもたちに見せたらよいでしょうか。
まじめに仕事に取り組む、生活をきちんとするというようなことは基本的なことなのですが、家庭の中で大事なことは親たちが互いに尊敬し合い、感謝し合う姿なのです。
そういう感謝や尊敬の気持ちを宗教的な形にしたのが、「お正月」であり、またまもなく来る「春彼岸」であり「お盆」、「秋彼岸」なのです。

「供養」とは、読んで字のごとく、「供えて養う」ことです。
仏教では、本来、仏さまや僧に食物や衣服を供えることなのですが、自分の両親や恩師などに、「贈り物」をすることも、供養のうちだということになります。
たとえば、年老いた両親においしいものを食べさせて、暖かいものを着せて、長生きするように、自分を育ててくれた両親に感謝する、立派な、生き「供養」です。
その両親が亡くなれば、生きていた頃と同じように、好きだった食べ物を供え、花で飾り、明かりと香とで「供養」するようになります。
それを、「死んだ者が、食べたり飲んだりするものか」などと言っているうちは、ほんとうの「供養」の意味が分かっていないのです。
飲食や灯、香を供えるその形自体が供養なのです。
そして家族や親族と集まって供養を営むことで、「家」の結束を固め、家の恥、親の恥になるようなことはしないという暗黙の誓いが交わされます。
ここに「お正月」、「お彼岸」や「お盆」をあみ出した日本の先人の知恵と特質があるのです。

合掌

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