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『阿修羅と人の世』

正峰*第27号

桃源院(本院)が行なう秋の彼岸会供養は、施餓鬼供養をも併せて執り行うので、なかなかに盛大で、一年中で最も重要な年中行事です。
従いましてその準備諸事は、懇ろに組まれた計画案に基づいて順序良く組み立てられて行きます。
所で卒塔婆書きのような作業は全て手作業となる上に、一本毎に仏様の御法名が異なりますし、御遺族への回想を念じつつ御名前を記して行きますので、神経を使う大作業であり、時間を要するのです。

何はともあれ、御来院下さる大勢の檀徒の方々をはじめ、住職に協力して供養会に御参集、御支援下さる多数・法友各寺の御住職様方、護持会会員の皆様方のお蔭を以ちまして、今年も盛大に終了する事が出来ました。
誠に有り難いことと感謝申し上げる次第です。

施餓鬼供養が過ぎますと、松山の秋は一段と深まって、一年の終期に入った事を実感します。
農産物の収穫量が気になる季節です。

今年前半の不安定だった天候の影響が、日照不足という形で米作には種々悪条件となったようですが、 そこは日本が誇る農業技術で克服し、作柄は概して「平年作」にもち直したようです。
本院のある宮城県大崎市は、米が主生産品ですから、これの良し悪しは住民にとっては、実に一大事で、都会の人達が株価暴落、金融不安のニュースに一喜一憂される以上に、身近な生活の問題として重要なのです。
こうした問題も含めて、近年の都市部と農村部の経済格差は次第に拡大し、大きな問題になっていました。

先の衆議院選挙で、自民党が大敗し、民主党に政権交代をされてしまった一因なのだと思います。
然し、政権党となった民主党にしても、政府与党の経験は浅く、あの頑強な“官僚要塞”をどう打ち砕くのか、それより現今の雇用問題、年金、不況対策、日米・日中等国際問題などにどんな手を打ってくれるのか、政権交代が本当に即、実質効果に結びつくように、国民が期待する方向へと見事な「舵取り」をして欲しいものです。

今年初夏の頃に、東京では奈良・興福寺が保有する阿修羅像を、上野の国立博物館・平成館に輸送して、大展覧会が開催されました。
連日、押すな押すなの大盛況で、最も混雑した頃は、会場外の誘導広場で三時間も並んで待つ程だったと聞き及びました。

阿修羅は元来はインド固有の神々の一人として須弥山上の天界にあったのです。
阿修羅‐天界の王・インドラ(仏教では、やがて帝釈天となる)に娘を奪われ、
悲しみと怒りに身をさかれた阿修羅が、度重なる敗北にもめげず、帝釈天に戦を挑む事になります。
然し、武勇無双の帝釈天の率いる軍勢には刃が立たず、絶望的は戦いをつづける阿修羅はついに、闘争の権化となってしまい、その妄執ゆえに、遂には、天界から堕とされてしまうのです。

その阿修羅が支配するのが「修羅道」です。
孤独で絶望的な戦に奮戦する(悲惨な戦いの場を“修羅場”というのもここから来ています)
阿修羅の姿は、悲壮感に溢れ、それが、文学的な共感を呼ぶのか、宮沢賢治や高橋和巳が次のような言葉を残しています。

「つばし歯ぎしり行き来する。俺は一人の修羅なのだ」(宮沢賢治)
「どこへ行っても免罪の場のない、生涯にわたる阿修羅として」(高橋和巳)

六道輪廻の世界(天上、人間、修羅、畜生、餓鬼、地獄)のうち、天上にもっとも近いのは、我々の住む「人間界」です。
仏教が説く世界〔宇宙は非常に大きな規模のもので〕、空想に満ちていますが、
中央に高く聳える「須弥山」があり、その外側に広大な海、東・西・南・北に大陸が続きます。
南に位置しているのが「贍部州(ぜんぶしゅう)」といい(三角形をしていてインドに似ている)
ここに私達(この場合インド人)が住む、他の大陸にも別の国の人間が居る。
この世界の下に修羅、畜生、餓鬼の世界があって、最下層が地獄と言う多重構造になっていると教えています。
いずれにせよ“修羅”の世界とは、「常に闘争に明け暮れる大変な所」を意味しているのです。

それ程に容易ではないはずの“阿修羅”が何故にこれ程の人気を博し、共感を呼んだのか?
数ある阿修羅像の中でも興福寺のものは、その凛とした容貌と姿・形の美しさで特に傑出しているのですが、純粋で美しく、少し憂いをたたえた少年のような、また少女のようでもある童顔が人気の源なのかも知れません。

人は生を受けて後、様々な試練の機会に出合い、幸福や不幸にも会し、死を考えたくなる程の苦境をも経験することがあります。
時には阿修羅そのものになってしまった如く、難敵と長時間にわたり闘うこともあります。

殊に、現今のような世界的な大不況下、内外に困難が山積する時代だからこそ、“阿修羅”像が醸し出す、悲しそうな、或いは不安と情念を感じさせる、不思議な心情に我身の運命や心境を重ね合わせる人が多いのかも知れません。

人間が人間らしく生涯を送るためにも、今の世には楽しみと同様に苦しみが多く自らの日常を顧みた時、私もまた一人の“阿修羅”として試練を与えられている、と思うことがあります。

合掌

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