『時に思うこと』
正峰*第24号
今年は寒くない冬のようです。
私の小学校の頃、私の田舎では冬が大変厳しかったのです。
防空壕代わりの穴ぐらに新聞紙に包んだ白菜、大根や人参など凍らないように土の下に浅く埋めて保存していました。
朝、廊下の雨戸を開けると、縁側にはバーコードの黒の線の模様のように、
白い雪の線が美しく並んでいました。
多分雨戸の隙間から風で運ばれて来て、積もったものでしょう。
縁側の竹の物干しにかけてある手ぬぐいは、カチンカチンに凍っていましたし。
みんなの手はあかぎれかしもやけになり、それどころかホッペまでりんごのように真っ赤、それ以上に紫いろになっていたりするのです。
それでも遊びはたくさんありました。氷の上の下駄スケート、雪坂でのそり滑り、野うさぎの罠掛け、かすみ網張りなど外の遊びでくたくた腹ペコで帰ったものです。
どんな環境でも夢中になって遊べた子供の頃は幸せです。
世界も本当に狭くて、隣町は外国よりもずっと遠かった。
大人になるのはまだまだ先のこと、余計な心配などは全くしないで夢中になって遊べました。
寒い寒い冬でも本当に楽しかったのです。
しかし、私たちはいつまでも楽しい子供のままではいられない。
生まれたら必ず老いが、病が、そして死が来るのです。
「老・病・死」これは本当に苦しみ以外のなにものでもないように思えます。
今は健康で幸せで、満足している人生を謳歌していても、すぐにやってくる人生の黄昏に備えて、どのような心の準備をしているのでしょうか?
確かに少しずつ人生の過去の整理をしているはいるはずです。
先日、歌手の境正章が若い歌手?の香取慎吾にテレビ番組で言っていました。
「この年になると過去の邪魔なものはどんどん捨てていくんだよ」
「え…もったいなくないですか?」
「あなたはまだ若いからいいけど、この年になるとそういうものが重たくなるんだよ」と。
年齢とともに重くなり始めた人生の荷物の整理は始めていても、ほとんどの人はすぐにやってくる人生の不幸については考えないようにしているか、あるいは意識的に避けるようにしています。
そのために、いざその不幸が現実になったときに、
心は千々に乱れ、世間を逆恨みしたり、神仏を恨んだりするのです。
それでは実際に、老・病・死が自分のところにやってきたら、
どのような心構えでそれを迎えたらいいのでしょうか。
必ず訪れるのですから、迎える準備や予行演習をしておくことは可能でしょう。
よく聞く言葉に、
「年を取ったら本当につまらん」というお年寄りの呟きとも独り言とも取れる言葉があります。
目が不自由になり、耳が遠くなり、歯も弱くなり、足腰も痛んでくると、愚痴のひとつも出るのは当たり前です。
しかし、これは生まれたら必ず通らなければならない関所のようなものです。
古今東西決まっている真理です。
ご先祖が先人誰でも経験してきたことなのです。
それではどのような老人像が理想なのでしょうか。
具体的に思い描いてみてください。
ありがたいことに私たちの周りには実に沢山のご老人の方々がお暮らしです。
参考になるような方もおられれば、このような老人にはなりたくないという逆の方もおられます。
私も職業柄たくさんのご老人に接する機会をいただいています。
そして、ある種のタイプの老人が理想像のような思いがしてきました。
それはご想像のどおり「屈託のない明るい老人」です。
屈託がないということは、捉われることがないということです。
小川のようにさらさらと流れていくということです。
だいたい苦しみというものは、執着心です。
過去への執着心、名誉への執着心、妙なプライドへの執着心。
みんな捨てれば気が楽になるのです。
みんな捨てれば気が楽になるのに。
気が楽になったらあとはお任せです。
「晴耕雨読」これも流れに逆らわない自然な生き方かもしれません。
仏教では「浄土系」の教えがこれをもっとも重要としています。
「南無阿弥陀仏」のお念仏です。
阿弥陀様にすべてお任せの世界です。
とにかく年を取ったらあれこれこだわらずに、自然の流れに身を任せてください。
次に、明るさを身につけてください。
老人という言葉から連想するイメージはプラスとマイナスがあります。
熟したとか、多くの経験に裏打ちされた知恵があるとか、技があるとかいったプラス面と、下り坂であるとか、足手まといであるとか、醜いとかいったマイナス面があります。
それはいたし方ないことで、それをわきまえたうえでの「笑顔」の素敵な老人。
これを「顔施」といいます、笑顔でも相手に十分な布施ができるのです。
今年は心からの「笑顔」の練習でもしてみますか?
合掌