『人生百まで楽しく生きる』
正峰*第25号
私もいつとはなしに満八十二才を迎えることになりましたが、お蔭さまで心身ともに目立った支障もなく、元気で寺務に精進出来ますことを有難いことと、日々感謝の明け暮れです。
そこで日頃しみじみと感じて居りますことなどを、十の数え歌とともに宗祖道元禅師の著作・修証義を心の糧として皆様に御紹介させて頂くことに致しました。
- 七つとせ、長い人生じや気は長く、からだ丈夫で働きましょう。
- 八つとせ、野菜、小魚、玄米飯、果物、清水(生水)、お酢もたっぷり頂こう。
- 九つとせ、こんな幸い運の良さ、笑顔で毎日にこにこと。
- 十つとせ、年はとってもこの若さ、百歳突破で悠々と。
- 一つとせ、人と生まれて来たからは、共に長生きせにゃならん。
人に生まれて来た悦びをまず考えて下さい。そして歳をとらぬ為には、いつも若く居るためには、
- 第一、本を読んで考えよ
- 第二、人の話に耳を傾けて考えよ
- 第三、討論して考えよ
- 第四、目を開いて観て考えよ
- 第五、ものを考えよ
人であることは「考えることです」、頭を働かせることです。頭を働かせることの大切さを仏様は私達に教えて下さいました。
そこで、人間として生まれたことの素晴らしさを、珍しさを、不思議さをよくよく考えて下さい。
宗祖・道元禅師は次のように教えて居られるのです。
「人身得ること難く、仏法値うこと稀なり、今我等宿善の助くるに依りて、己に受け難き人身を受けたるのみに非ず、遇い難き仏法に値い奉れり、生死の中の善生、最勝の生なるべし、最勝の善身を徒らにして露命を無常の風に任すること勿れ、と修証義・第一章第二節にお説ぎになって居られるのです。
仏さまは或る日、大地の土と、母指の爪の上の土とを比較して、どちらの土が沢山あると思うか、と問われました。
弟子達は「御尊師さま、爪の上の土は比較にならぬ程に僅少であります」と申しますと、仏さまは弟子達に申されました。
「善し々し、それで良いのだ、そのように人間に生まれると言うことは、極く々く稀れなことでこれ程に有難く不思議な事は無いのだよ」と述べられたのです。
「人間に生まれた喜びをかみしめ、現世に成仏することを心がけよ」とも諭されました。
ここの所を坂村真民さんは、「二度とない人生だから」の教えとして次のように謳います。
- 一、二度とない人生だから 一輪の花にも無限の愛を注いでゆこう
一羽の鳥の鳴き声にも無心の耳を傾けてゆこう。 - 二、二度とない人生だから 一匹のコオロギでも 踏み殺さないように心して行こう どんなに喜ぶだろう。
- 三、二度とない人生だから 一ぺんでも多く便りをしよう 返事は必ず書くことにしよう。
- 四、二度とない人生だから 先ず一番身近な者たちに できるだけのことをしよう貧しいけれど 心を豊かにして接してゆこう。
- 五、二度とない人生だから 露草のつゆにも 巡り合いの不思議さを思い 足をとどめてゆこう。
- 六、二度とない人生だから 昇る日沈む日 円い月欠けてゆく月
四季それぞれの星々の光に触れて我が心を 洗い清めてゆこう。 - 七、二度とない人生だから 戦争のない世の実現に努力し そういう詩を一編でも多く作ってゆこう 私が死んだら 後を継いでくれる 若い人たちのためにこの大願を書き続けてゆこう。
一つ一つの詩が真に味わい深いものです。さて、二度とない人生だから 共に長生きすることは大切な上にも大切なことです。
お前百まで、わしゃ九十九まで 共に白髪の生えるまでと願う 温い心をもつことです。
「お前九十九まで、わしゃ百まで 共に白髪の生えるまで」ともし願ったとしたら、僅か一才の違いですがその意味は大いに違って来ます。
百でも九十九でも共に大層な長生き、どちらも五十歩百歩だから、どちらが多くても好いではないかと言う論もあるかも知れません。
ですがこれは大違いなのです。お前百までの方には思いやりがあります。
わしゃ百までの方には一人良がりの冷たさがあります。僅か一才の間には大差があるのです。
この大差が愛の根源となるのです。
何時でも「願わくば此の功徳を以って 我等と衆生と皆共に仏道を成さんことを・・・」と
この誓願のありやなしやの差が、仏になるか否かの大切な鍵なのです。
・・・・・と道元禅師は教えて居られます。
「菩提心を発すというは 己れ未だ変らざる前に一切衆上を度さんと発願し営むなり、設い在家にもあれ 設い出家にもあれ 或は天上にもあれ 或は人間にもあれ 苦にありというとも楽にありというとも 早く自未得度先度他の心を発すべし 其の形陋しというとも
此の心発せば巳に一切衆上との導師なり」
「男女を論ずること勿れ、此れ仏道極何の法則なり そしてもし菩提心を発して後 六趣四生に輪転すと雖も、其輪転の因縁皆菩提の行願となるなり」とあり有難いことです。
「正法眼蔵八大人覚」で仏法にあいたてまつること 無量劫にもかたし
人身をうることもなをかたし たとえ人身をうくといえども三州の人身よし
その中に南州の人身すぐれたり 見仏聞法 出家得度するゆえなり
如来般涅槃よりさきにさきだちて死せるともがらはこの八大人覚をきかず
ならわず今われら見聞したてまつり 習学したてまつる、宿殖の善根の力なり
いま習学して生々に増長し、かならず無土菩提にいたり 衆生のためにこれを説かんことも 釈迦牟尼仏に等しくしてことなることなからん」と道元禅師はご遺言下さっています。
一つ どうぞ(頼むとき)
二つ ありがとう
三つ ごめんなさい
そしてスマイル(微笑)です。
水前寺清子の”ありがとう”の歌詞には
さわやかに恋をして さわやかに傷ついて さわやかに泣こう さわやかに夢を見て さわやかに諦めて ただ一人泣こう 何時も心に碧い空を 何時も優しい微笑みを さわやかに見つめ合い さわやかに信じあう 今日も明日もありがとう。
清々しく、楽しい歌です。
家康の長生きの秘訣は「食い気と色気を適切にし 信仰心を土台にし 天地自然への感謝の生活をおくることなり」と天海僧正から教示された教訓を実践されたからだと伝えられています。
- 四つとせ、夜は良く寝て 朝早くお日様おがんで体操を
- 五つとせ、胃腸丈夫によく噛んで どんな馳走も腹八分・・・・
若さ健康長寿は他人からもらえるものでなく、人に与えることの出来ぬもの、
唯々自分で勝ち取るもの実行はあなた自身です。
お医者さんに出来ることも適切な手助けだけです。腰は生命の発電所といわれていますが、小学一年生でももう体の老化が始まっています。
全身の運動不足から肩こり首筋が張る、腰痛等の病気ではない半病或いは半健康の状態が続くことがあります。
この時に早く手を打たぬとほんものの病気になってしまうのです。
九つとせ、こんな幸せ運の良さ笑顔で毎日にこにこと・・・・
「おおよそ因果の道理歴然として私なし造悪のものはおちね修善のものはのぼる
毫釐もたがわざるなり もし因果亡じてむなしからんかごときは諸仏の出世あるべからず
祖師の西来あるべからず 一つには順現報受 二つには順次生受 三つには順後次受 これを三時という 斯の三時の業報を理をならいあきらむなりまさに
知るべし今生のわが身ふたつなし みつなし いたずらに邪見におちてむなしく悪行を感得せん
おしからざらめやとの道元禅師のお喩しを身心にかみしめ
三つとせ みんな仲良く朗らかにいつも感謝に暮らしていることが生長して こんな幸せと感ぜられ 運の良さと喜べるのです。
そして毎日ニコニコと笑顔をしていると福の神さまが押すな押すなと押し寄せて来るものです。
感謝の笑顔は善因善果でたがいに一枚の紙の表であり裏です
不二一如の仏の行です。十とせ 年はとっても この若さ百歳突破で悠々と
早くふけ 早く死ぬためには うまいものを食べ レジャーを楽しみ
家で昼寝し 夜ふかし朝寝することです。然し、年はとっても
設い百才の月日は声色の奴婢と馳走すとも其中一日の行事を行取せば
一生の百才を行取するのみに非ず 百才の他生も度取すべきなり
この百の生命は尊いという身命です ありがたい・ありがたい身体です。
この行持あらん身心を私が自ら愛し、自らうやまい、そして私のさせて頂けるこの行持によって諸仏の行持は見成して下さり 諸仏の大道通達していただけるのです。
この一日の行為こそは諸仏の種子であり諸仏の行持そのものです。
道元禅師のお諭しであり、ありがたいものです。
六つとせ、昔は六十でご隠居さん、今じゃ八十で花盛り・・・・
六十才老いこまず、八十才から新しい第二の人生を楽しくにこにこと笑顔で咲かせて花ざかりの道場を ばら色の人生 仏様への最上のお供物としましょう。
ありがとうございました。
合掌