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『病臥して想う』

正峰*第26号

まずこの一年を回顧します。

僅か一年の間に、内閣総理大臣が三人も変ったり、あの世界のリーダー・アメリカのニューヨーク株価が大暴落を起してパニック寸前の世界同時”金融不安”を生じたり。
平成20年も現実は少しも平穏ではなく、不安定を残したまま年末を迎えることになりました。

北国である宮城県松山も、冬らしい寒い朝が多くなり、合併により大崎市の一部となった田尻地区・蕪栗沼、古川市・化女沼にも渡り鳥が数多く飛来し、ラムサール条約に基く優良自然保護地域指定のこともあって、近頃、関心の高い地元の話題になっています。

さて、私事にわたることで恐縮ですが、私は近時「急性膀胱炎」に罹りまして、特に、九月は病臥の生活となって近親の方々に大いに御心配をかけ、また檀家の皆さまにも大変な御迷惑をお掛けしてしまいました。真に不養生の不始末でもあり、人生終期の大失策であったと大いに反省する所です。

人間の身体とは実によく造られていて、毎日摂取する食物からエネルギーの源泉たる栄養分を始めとし、肉体を造り、或いは生活に要する諸々の分子、養分などを吸い上げては吸収し不要な老廃物を排泄します。この機能の或る個所に不具合が出来て、体内の”毒素”の排出が止まってしまったのです。原因がわかれば現代の医療は高い技術で、その病源を断ち、苦しみ、痛みから老いたる病体を救い出してくれます。こんな事は自然に治ると軽んじていて、重症にしてしまったのです。なんとも年甲斐の無いことと反省しています。

所で、病の床にあった日々、苦痛に呻吟しつつも、我が人生を顧みて、様々な回想を思い浮かべました。久しぶりのことです。己の人生について、良い人生であったか否か、良かったのは何時か、悪かったの何時……。やり残しは無いか、それは何かなど……です。齢から想えば、諸事を為し終えて、悟りの境地に在るべき身に、未だ幾つもの煩悩が思い浮かんでは過ぎてゆきます。
己の修行の未熟さを改めて開陳されるが如くで、悲しい思いで一杯でした。お釈迦さまが悟った人生の本論である、”苦締”「生」を得た無上の喜びと平しく「老」「病」「死」の生涯の宿命を背負って行かねばならない。と昔に教えられ、その教えを釈尊の弟子の一人として、多くの善男、善女に説き伝え続けてきた……その自分が改めて”病”の残酷さ、そしてそれが”老”と重なった折の無力感を思い知らされました。

老いた身体に病が重なると、人間の弱さが二倍にも三倍にもなって露呈します。痛い、起き上がれない、枕もとのコップの水に手がとどかないなどこの上なく情けないものです。

そんな時の身近な人の親切が、仏の御慈悲の如くに有難く、嬉しいものです。これは僧侶でも普通の人でも変らない素朴な人間の情だと感じたものです。

人さまざま、人生色々だ、などという言葉が流行語になりました。一夜にして栄光の座から転落する人、思いがけない名誉を得る人、幸運の人々なども居ます。

アメリカのブッシュ大統領の没落とオバマ次期大統領の栄光の急上昇ぶり……その明暗の差が現代社会の現実でしょう。東京の六本木ヒルズに住んでマネーゲームで一躍、時代の寵児とされた”青年実業家”グループ。実は法を逸脱してまで世間を欺く虚業家だった事件、芸能界トップのヒット音楽プロデューサーの詐欺事件など、世の中が荒々しく、ますます、人の真の情が懐かしい昨今なのです。然らば良き人生とはどう考えるべきか、「平凡にして、高きを望まず、低きに惰さず。各自の分に応じた人生を日々豊かに健康に過す」と言うくらいの事でしょうか。

道元禅師は「坐禅は何かの目的のために行うものではなく、悟りを開く修行ですらない、只、坐姿が仏であると信ずること即身是仏である」と教えて居られます。

私は今、再び元気を得て、普段の日常にもどることが出来ました。今まで頑なに、自分の思いで責任の枷を造り背負って来ました。改めてその全部の肩の荷をおろし、一介の仏子として日常を平穏に保ちつつ、命の灯が終る日まで、世の中の苦悩ある人々を援け、奉仕して行こうと思っています。

合掌

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